レファレンス事例集(長野県)

長野県に関する質問質問・回答
問1「信州三山」と呼ばれる、名前に〝山〟がつく人は、佐久間象山以外に誰か
答 「信州三山」は不明だが、『長野県歴史人物大事典』(郷土出版社 1989)[ N283/13]p760の「山寺常山」の項に、「松代の三山」といわれるのは「山寺常山」「佐久間象山」「鎌原桐山」とある。
【調査経過】①『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社 1981)[ N030/2A]、『信州豆辞典 上・下巻』(NHK松本放送局 1965)[ N040/6]、『博学紀行長野県』(福武書店 1983)[ N030/4 ]などの長野県に関する事典類を見たが、関係する記述はなし。
②『長野県歴史人物大事典』(前掲)中、索引の中から、名前に〝山〟がつく人名を拾いあげたところ、多数あり。同書のp324~325に記載のあった「佐久間象山」の生没年を確認し、彼と同時代に活躍した人々を、各人名の項目にあたって特定したところ、「山寺常山」の項に「松代の三山」の記述があり。
問2雲に関係した「信濃太郎」という言葉はあるか
答 『物類称呼』(越谷吾山著 杉本つとむ解説 八坂書房 1976)[ 031/155]p28の「夏雲」の項に、この雲のことを〝近江越前にて信濃太郎という〟との記述がある。また、『語源をさぐる1』(新村出著 岡書院 1951)[ 812/1/1]p84~91の「雲の名」の章のうち、p85に夕立雲のことを〝甲州、越前などでは信州のアルプス方面から広がってくるので信濃太郎〟というとの記述がある。
【調査経過】①郷土資料の[N880 郷土方言]の書架を見て、『信濃太郎』(福沢武一著 柳沢書苑 1969)[N880/3]に至る。p66~89に信濃太郎についての記述あり。多くは毛虫の呼び名についてだが、p71に『物類称呼』(前掲)から〝六月信濃の方に出る雲をしなの太郎と云〟との引用部分あり。またp73には『語源をさぐる 1』(前掲)からの引用部分あり。
②自館システムで『物類称呼』と『語源をさぐる 1』を検索。所蔵することを確認し、現物で本文を確認し答に至る。
問3万葉集の中で信濃国に関係のある歌は何首かわかる資料があるか
答 次の資料により歌の数がわかる。
1.『信濃古歌集』(平林富三編 郷土出版社 昭60)[ N911/55b] p3~6;15首
2.『信濃の秀歌百首』(塚田青岡著 信濃毎日新聞社 1984)[ N911/530]p9~13;13首
3.『信濃の古典』(長野県国語国文学会編 信濃毎日新聞社1986)[ N902/148]p20~24;9首
『信濃古歌集』には『信濃の秀歌百首』と『信濃の古典』中の歌は、すべて含まれており、次の2首が加えられている。
・くれなゐの浅葉の野らに苅る草の 束の間も吾を忘らすな(巻十一)
・浅葉野に立つる神占の菅の根の ねもころ誰故 吾恋ひざらむ(巻十二)
『日本古典文学大系 6 万葉集 3』(岩波書店 1960)[ 918/27/6イ]p236~237の頭注には、「浅葉」について、〝地名。所在未詳。和名抄の郷名に、武蔵国入間郡麻羽安佐波(埼玉県入間郡坂戸町)があり、静岡県磐田郡に淺羽町がある。長野県東筑摩郡本郷村浅間のことともいう〟とある。
『信濃古歌集』の凡例には、〝掲出した古歌の中には、内容上は、信濃の歌枕そのものを詠んだものではない歌が沢山あり、又ある歌枕は、信濃に属するか疑問のものも含んでいるが(中略)用語其他何等かの点で、信濃に関係を持つものは、洩れなくあげて後の研究に資することにした〟とあることから、上記の2首が加えられたものと思われる。
また、『信濃の古典』(前掲)には、次の4首は含まれていない。
・日の暮に碓氷の山を越ゆる日は夫のが袖もさやに振らしつ
・ひなぐもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
・み薦苅る信濃の真弓吾が引かばうま人さびて否と言はむかも
・み薦苅る信濃の真弓引かずして弦著ぐるわざを知ると言はなくに
【調査経過】①郷土資料の[N902 郷土の文学史]と[N911 郷土の詩歌]の書架を見て、上記1~3の資料に至る。
②資料によって収録歌数が異なるため、それぞれの資料を照合し、歌の重複を確認後、『日本古典文学大系 6 万葉集 3』(前掲)により、それぞれの歌の収録と、頭注を確認。
③「浅葉の」について調べるため、『万葉の歌ことば辞典』(稲岡耕二 橋本達雄[共]編 有斐閣 1982)[ 911.12/イコ]、『歌枕歌ことば辞典』(片桐洋一著 角川書店 1983)[ 911.1/カヨ]などを見たが、項目なし。②の頭注をもって説明とする。
問4「信州健児」もしくは「信濃健児」という歌があるか
答 『思い出の歌集』(大萱老人クラブ 1972)[N767/16]p44-46に「信州健児」の題名でおよそ以下の歌詞があり。但しこの歌詞は「信州男児」という題名のものであることが『長野県上田高等学校史中学前編』(上田高等学校記念誌刊行会編・発行 1983)[N376.4/59/2]p230-237によりわかる。作詞、作曲者は以下のとおりである。
 「信州男児」
 作詞 田中常憲(じょうけん)
 作曲 田口(旧姓山下)信太郎
 1.東千山のけん嶮に拠り 西まんがく万岳の雲によ攀じ
   六十余州のただなか直中に 高く建てたる国一つ
   となん図南の翼打ち拡げ 見下ろす姿の雄々しさや
 2.煙は高し浅間山 流れは遠し千曲川
   四時の野辺には花匂い 四季の山には月清し
   天のかんばせ眉目地の姿 あなうる美わしの国なれや
 3.忘君のいこ遺孤を手に捧げ 雲なす大軍うち掃ひ
   誠忠孤剣をひっさげ提げて なにわ難波の花と散りにける
     千古稀なるだいけっし大傑士 幸村このち此地に育ちたり
 (4-12番省略)
 『同校史』によれば、作詞者田中常憲は明治6年鹿児島県生まれ、同34年4月に上田中学に着任した国漢科の教諭であり、作曲者田口信太郎は明治30年埼玉県に生まれ、同35年4月に音楽教諭として 同校に着任している。この詞は「長野新聞」の主筆茅原華山の寄稿依頼にこたえて田中が明治35年1月に同紙に発表したものである。学校の希望により、田口によって歌が作曲され、同年12月、上田市原町百合舎書店から、田中による解釈を付して同名の本が出版された。その後「新小唄信州男児」としてレコ-ドが発売されている。
【調査経過】①郷土資料の「N767 声楽」の書架を見て、各歌集の目次をあたる。『青年歌集』(社会教育会長野県支部 1933)[N767/1]p15-18に「信州男子」あり。
②前掲『思い出の歌集』に至る。「信州健児」を発見するが、歌詞は①にほぼ同じ。この曲の題名を確認するため、更に資料をあたることにする。
③『唄のふるさと』(信濃毎日新聞社編発行 1994)[N767/49]中、索引で題名を引き、p104-105の「信州男児」に至る。歌詞は①、②の資料とほぼ同じ(5-12番は省略)であるが、この歌の成立に関わる解説が詳しく、作詞者、作曲者の名前が記されており(但しここでは田口が旧姓とあり)、『上田高等学校史 中学前編』の文章が引用されていたため、同書の当館での所蔵を確認した。
④『同校史』目次に「信州男児の歌」と項目があり。該当頁に成立 の経過、歌詞、楽譜などの詳細な解説があり。答欄の「信州男児」の表記は同書p231のものを引用した。
問5駒ヶ根市を流れる鼠(ねずみ)川の名の由来を知りたい
答 『伊那地方の地名』(松崎岩夫著 信濃古代文化研究会 1984)[N293/2]p232-234に「ねずみ(鼠)という地名」という章があり、この川についても考察されている。それによると、この地方には古代、官道の東山道が設けられ、これと並行して通信制度として、烽(とぶひ)とよばれる狼火(のろし)台が置かれていた。烽では、昼は煙、夜は火によって緊急連絡をしており、日夜、特に夜も寝ないで見張りをしていたので、見張り台のことを古代においては、「ねずみ(不寝見)」といったという。鼠川を遡ったあたりの山上に古代、「ねずみ」が置かれていたと考えられ、そこから流れ出る川を「ねずみ(不寝見)」川と呼ぶようになり、いつからか「鼠川」に変わって現在に至っていると考えられるとある。
【調査経過】①郷土資料の「N293 地名辞典」の書架を見る。『角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店 1990)[N293/18]、『長野県の地名その由来』(松崎岩夫著 信濃古代文化研究所 1991)[N293/23]などの資料には回答に結びつく記述はなし。前掲『伊那地方の地名』に至る。
②複数の資料でこの内容を確認するため、『駒ヶ根市誌』(駒ヶ根市教育委員会)[N242/61-1]や、『信濃の川』(柴崎高陽著 信濃毎日新聞社 1979)[N748/24]、『日本地名語源事典』(吉田茂樹著 新人物往来社 1981)[ 291.03/ヨシ]を見たが関係記事はなし。上記の回答とする。
問6木曽御嶽山の女人登山制限が撤廃されたのはいつか
答 次の資料に以下の記述があるが年次の特定はできなかった。
 1.『御嶽の信仰と登山の歴史』(生駒勘七著 第一法規出版 1988)[N173/28]p250  「明治になっていつとはなしにこの女人登山制限の上限は撤廃され、頂上登拝が自由となり(後略)」 
2.『木曽 三訂版』(木曽教育会郷土館部編著 信濃教育会出版部 1993)[N234/99b]p186-187  「明治初年まで女人の登拝はこの八合目までしか許されなかったもので(後略)」
 3.『ひとり歩きの信州』(JTB 1999)[ 291.52/ヒト]p310
 「古くは女人禁制だったが、明治7年(1874)には禁が解けた」
 また、木曽郡王滝村御嶽神社里宮に照会したところ、明治9年頃という回答であった。
【調査経過】①郷土資料の「N234 木曽郡の歴史」「N290 地誌・紀行」「N786 登山」の書架を見て、上記の資料に至る。
②質問者の段階で王滝村役場に照会済みのため、上記神社に照会した。
問7明治10年代の『信飛新聞』で小谷村の葛葉峠で「ウルル」が大発生するので襲われないように夜間通行したという記事をみた。この「ウルル」とはなにか、当時の記事は見ることができるか
答 『信州百峠』(郷土出版社編・刊1995)〔N290/158a〕116pに“葛葉峠は牛泣かせ人泣かせの峠だった。夏場の峠付近は吸血蝿であるウルルが大発生する所だった。牛にも牛方にも肌の露出している部分には所嫌わず喰いついて血を吸う蝿であり、かゆいというより痛いという表現があてはまる蝿の襲撃で困難した。そのため葛葉峠越は蝿の出ない早朝か夜中にしてよい定めとなっていた”とある。
 なお『信飛新聞』は明治9年で廃刊しており、その後『松本新聞』が号数を継いだが明治14年で廃刊した 。
【調査経過】① 『信飛新聞』(有賀義人編 復刊信飛新聞刊行会1970)〔N073/1〕14pには、明治9年11月15日の『松本新聞』第1号に、『信飛新聞』は8月31日第169号で休業し、『松本新聞』が『信飛新聞』の号を継ぎ、『松本新聞』第170号発行を始めたとあるため、明治10年以降の『信飛新聞』は存在しないことがわかる。
② 『小谷村誌』(小谷村誌編纂委員会編 小谷村誌刊行委員会1993)〔N231/46〕をみるが記述なし。
③ 葛葉峠は千国街道にある峠なので、街道の歴史をみていく。『塩の道・千国街道』(田中欣一著 銀河書房1982)〔N682/54〕278~279p、『塩の道(千国街道)に歴史をひろう』(大日方健著 ほおずき書籍1994)〔N682/87〕74~76pなどに「ウルル」についての記述がある。
④ 郷土資料の[N290地誌]の書架をみる。『信州百峠』(前掲)をみていくと答の記述あり。
問8昭和20(1945)年に長野県内で発行されていた主要な地方紙と発行状況が知りたい
答 昭和20年に長野県全体を対象に発行されていた地方紙は『信濃毎日新聞』のみである。『百年の歩み 信濃毎日新聞』 (信濃毎日新聞「百年の歩み」編集委員会編 信濃毎日新聞社 1973)〔N070/12〕 367~369pによると、昭和20年4月1日、「戦局に対処する新聞非常態勢に関する暫定措置要項」という政府の措置により、県外紙4紙が信濃毎日新聞の題号のもとに印刷発行されることとなり、県民は信濃毎日新聞しか読む事ができなくなった。このとき『信濃毎日新聞』の発行部数は103,000部、その他の県外紙の総数は207,700部であった。この暫定措置は昭和20年10月15日に解除されたとある。
【調査経過】① 『長野県統計書』(長野県編・刊)〔N350/4〕に新聞発行部数があった記憶があり、該当する年のものを確認するが、昭和20年度は発行されていない。昭和23年の『長野県統計書』(長野県編・刊1950)〔N350/4/’48〕の「日刊新聞発行部数」には昭和21年から24年3月の間の県内地方紙4紙の発行部数が掲載されている。これによると『信濃毎日新聞』は102,972部(昭和21年4月)、『夕刊信州』は昭和21年7月から載っており29,553部(昭和21年7月)、『南信日日新聞』は同年11月からの記載で12,974部(昭和21年11月)、『信陽新聞』は昭和22年3月からで9,260部(昭和22年3月)となっている。
② いつ県下の地方紙が『信濃毎日新聞』のみになったのかを確認するため、『長野県史通史編 第9巻 近代 3』(長野県編 長野県史刊行会1990)〔N209/11-4/9〕471pによると、昭和14年の県警察部長名による新聞経営者への勧奨状で本格化した新聞社の統合は、昭和17年政策により、『信州合同新聞』(飯田市)、『南信日日新聞』(諏訪市)、『北信毎日新聞』(上田市)、『中信毎日新聞』(岩村田町)、『信州日日新聞』(松本市)が『信濃毎日新聞』に統合されたとある。
③ 『百年の歩み 信濃毎日新聞』(前掲)367~369pをみると、“敵機の爆撃によって、通信交通の全面的なとだえによる本土寸断をおそれた政府は、その際に中央の新聞が全滅してしまうことを防ぐため、二十年四月一日、「戦局に対処する新聞非常態勢に関する暫定措置要項」を緊急発令した。その内容は「持分合同」と「輪転機の疎開」を主とするものであった。(中略)持分合同によって、信毎に委託された県外紙は朝日、読売報知、毎日、中部日本の四紙で、その題号は信毎の題字下に併記することになった”とある。
④ 当時の発行部数と購読希望数が『百年の歩み信濃毎日新聞』(前掲)389pにあり、“持分合同が出発したとき、県外紙の総数は二十万七千七百余部、信毎の持分は十万三千余であったが、持分解消にあたっては、「県外紙を読みたい」とするものが二十四万四千余「信毎を読みたい」とするものが十二万四千九百部、共同販売所に申し込まれた。(中略)しかし、依然として割り当て用紙が制約されていたため、なお当分、それらの要望にこたえることはできなかった”としている。
問9歌枕として有名な「姨捨山(おばすてやま)」を地形図で探したが見つからない。現在はどのような地名になっているのか
答 冠着山(かむりきやま)であるとする説が有力である。『角川日本地名大辞典20 長野県』(「角川地名大辞典」編纂委員会編角川書店1990)〔N293/18〕367pには、“姥捨山の位置については田毎の月で名高いJR篠ノ井線姨捨駅(千曲市)付近とするなどの異説があるが、平安期の古典の記述は現在の冠着山を指しているとみるのが有力”とある。一方、『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(下中邦彦編 平凡社1979)〔N290.3/54〕769p「姨捨山」の項では“姨捨山の位置・名称については種々あって一定しない”とし、また“和歌や物語からみて、現在の冠着山をさし、月の名所として上流貴族の間で有名であった”とある。
【調査経過】① 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(前掲)をみると「姨捨山」の項に“名称の初見は「古今和歌集」で、一七雑上に 我心なぐさめかねつ更科やをばすて山にてる月を見て 読みびとしらずとある”として『古今和歌集』の成立期にあたる平安時代にはすでに山名が知られていたことがわかる。また冠着山の項に“名称の起源は「今昔物語集」の「信濃国姨母捨山語」の末尾に、「然シテ其ノ山ヲバ其ヨリナム姨母棄山ト云ケル。(中略)其ノ前ニハ冠山トゾ云ケル、冠ノ巾子ニ似タリケルトゾ語リ伝ヘタルトヤ”とあり、『今昔物語集』には冠着山が姨捨山と同じ山で、古くは冠山と呼ばれていたという記述がある。『角川日本地名大辞典20 長野県』(前掲)の記述も同様。
② 『姨捨山』(西沢茂二郎著 信濃路1973)〔N215/35〕では、古典にみえる姨捨山の記述が上げられており、冠着山に言及して“この呼び名は古い文書には見当たらない。即ち冠山と用いられており、冠着山は地方名であったと思われる。(中略)江戸時代の初期頃から、田毎の月と共に盛んに宣伝された「姨捨山十三景」というものの一に冠着山の名が見え”とある。
③ 『姨捨の文学と伝説』(更埴市立図書館編 更埴市教育委員会1991)〔N902/168〕62pには、「位置の諸説」という項があり、平安時代には、『大和物語』では「更科山(更級郡地域全体の山)」、『顕註密勘(けんちゅうみつかん)』では「冠山」、『俊秘抄』では「冠山」、『古今余材抄』では「冠着山」であるという記述がみえると、各箇所を引用している。また元禄年間には「姨捨十三景」の影響で長楽寺周辺が姨捨山と呼ばれるようになったとある。明治期のこととして、姨捨山が麻績のことであるとする麻績説と、冠着山であるとする説があったと記しており、麻績説として、歌川広重の「姨捨山の図」は冠着山から昇る月を麻績の里から見た図であり、また姨捨伝説を最初に定着させた『大和物語』にでてくる寺は坂井村の安養寺であるという、豊城豊雄の『姨捨山所在考』という資料をあげている。一方塚田小右衛門雅丈が明治22年の『長野新聞』に「実ノ姨捨山」を書き、本来の姨捨山は冠着山であると論じたとある。
問10小林一茶の句といわれているものに「雲外」という号が記してあった。一茶はこの号をいつ頃使っていたのか
答 『一茶叢書 第1編』(信濃教育会編 古今書院1926)〔N913/61/1〕に所収されている『享和句帖』(享和3年4月11日から12月11日までの句日記)の扉に「一茶園雲外」の署名がある。『一茶叢書 第1編』(前掲)7p「享和句帖について」には“『一茶園雲外』の署名は新発見である。一茶園の号は『急遽記』の表紙にも認めてあるので一茶の俳諧寺を称せざる以前の庵号であらうが、雲外の別号は本句帖より外に全く所見ない”とある 。
【調査経過】① 号や別名からひくことのできる『号・別名辞典 古代近世』(日外アソシエーツ編・刊1990〔281.03/223/1〕をみるが、「雲外」はなし。
② 郷土資料の[N913 俳諧]の棚で『長野県俳人名大辞典』(矢羽勝幸編著 郷土出版社1993)〔N913/696〕をみる。「雲外」の項をひくと4人の名がみえるが、いずれも一茶ではない。23p「一茶」の項をひくと、別号に「雲外」という記述がある。
③ いつ頃使われていたのかを調べるために、『一茶全集別巻』(信濃教育会編 信濃毎日新聞社1978)〔N913/352/ベツ〕の「小林一茶年譜」をみていく。23p、享和3年に“句日記扉に「一茶園雲外」の署名あり”とある。年譜により『享和句帖』の扉に雲外の署名があることがわかる。
④ 『享和句帖』が収録されている『一茶全集第2巻』(前掲1977)〔N913/352/2〕を確認する。91p『享和句帖』扉に“江戸本所五ツ目大島 愛宕山別当 一茶園雲外”とあり、また同書の口絵写真5pの原本の写真でも確認することができる。解説編の『享和句帖』の項25pをみると、“『寛政句帖』についで、現存する一茶の句帖としては第二の句帖たる本書は、他の多くのかれの句帖と同じく、本来無題箋であったが、大正十五年六月、信濃教育会一茶叢書第一編として出版される際に、『享和句帖』と題されたので、本全集においても、この名を踏襲した。(中略)本句帖に見える日付は、享和三年(一八〇三)四月十一日より十二月十一日までである。(中略)署名は、大正末年『享和句帖』が出版されてから、大いに注目されたところで、(中略)「雲外」なる号名、また「月船」なる印版(月船は古田氏、現茨城県利根川町布川の俳人、一茶の俳友)を用いていることなど、故勝峰晋風の考証したところであったが、「雲外」「月船」は、今日もいまだ判然とした結論が出ていない”とある。
⑤ 「雲外」という号についてどのような説があるのか、『一茶大事典』(松尾靖秋ほか編 おうふう1993)など一茶の資料をみていくが記述がない。また『一茶全集別巻』(前掲)の「小林一茶年譜」には、記述の参考資料が示されており、寛政・享和期の参考文献として論文名のあがっていた、前田利治「寛政末から享和期の一茶」雑誌『長野』(長野郷土史研究会1976)39号10~15pをみるが記述がない。
⑥ ④で『享和句帖』を通名とした資料、『一茶叢書 第1編』(前掲)をみると答の記述がある 。
問11昭和20~30年代に行われていた「ミチューリン農法」はどのような農法なのか
答 『日本大百科全書 23』(相賀徹夫編著 小学館1988)〔031/ニホ/23〕318p「ヤロビ農法」の項に“一九五〇年代に、長野県下伊那の農民を通じて日本全国に広まった農業技術に対する用語で、一名ミチューリン農業とよばれる。(中略)作物を温度処理によってその成長を支配し、作物の性質を変える農法を意味し、秋播き性→春播き性、あるいは晩熟性→早熟性という育種を目標とする場合と、低温処理による増収などをねらう栽培技術を目標としている。わが国のヤロビ農法はむしろ増収を目的としてイネ、ムギの穀物以外にトマト、キュウリなどの野菜にまで及んだ。しかしその成果が不明のまま一九七〇年(昭和四五)までには立ち消えとなった”とある 。
【調査経過】① 「ミチューリン」をキーワードに自館システムを検索すると、『ヤロビの谷間下伊那のミチューリン運動』 (栗林農夫著 青木書店1953)〔N611/44〕、『ヤロビ農法のやり方と実例』(長野県ミチューリン会編 日曜信州新聞社1954)〔飯田市中央図書館所蔵〕などが検索され、ミチューリン農法と関わりのあるらしいヤロビ農法があるということがわかる。
② [NDC 610 農業]の書架で「ミチューリン農法」および「ヤロビ農法」の記述を探す。『昭和農業技術発達史』(農林水産省農林水産技術会議事務局昭和農業技術発達史編纂委員会編 農林水産技術情報協会1995)〔610.12/シヨ〕などをみるが、わずかな記述しかない。
③ 農法の概要をとらえようと『日本大百科全書 23』(前掲)を「ミチューリン農法」「ヤロビ農法」でひく。「ヤロビ農法」の項に答の記述あり。
④ 県内で始まった農法であるため、関係資料が所蔵されているであろうと推測し、自館システムにて「ヤロビ」「ミチューリン」をキーワードに検索すると、1950年代の資料が多数検索され、詳細についてはそれらの資料情報を伝える。

問12テレビ番組でみた、松本市出身の「馬場ショウトク」という人物と、「パンチョビア-」という人物について詳しく知りたい。メキシコ革命で名を馳せたらしい
答 「パンチョビアー」はFrancisco Villaのことと思われる。『ラテンアメリカを知る事典』(平凡社編・刊1999)〔302/ラテ〕326pの「ビリャ」の項に“メキシコ革命動乱期の軍事指導者、政治家。本名はドロテオ・アランゴDoroteo Arango。(中略)1894年ごろ地主に危害を加え、逃亡してパンチョ・ビリャと名乗った”とある。詳細については、『反乱するメキシコ』(ジョン・リード著 筑摩書房1982)〔256/リジ〕106~128pに記述があるほか、市立岡谷図書館・長野市立図書館・松本市南部図書館で『メキシコ革命物語英雄パンチョ・ビリャの生涯』(渡辺建夫著 朝日新聞社1985)を所蔵している。
  「馬場ショウトク」は「馬場称徳」で、『メキシコに生きる日系移民たち』(山本厚子著河出書房新社1988)〔334/ヤ〕103pに“メキシコ革命時代に北部メキシコにいた日系人たちの救出には、米国シカゴの領事館の書記生馬場称徳が個人の資格で派遣された。革命軍と交渉して彼らを救出しなければならなかったからである。九〇〇人以上が救出されてインペリア平原の近く、ハバ・カリフォルニアのメキシカリの綿花農園で働くことになった”とある。また馬場称徳が当時シカゴ領事館にいたことは、『職員録』(大蔵省印刷局編・刊)〔281.03/2〕より、大正2年から大正5年に名前がみえることから確認できる。詳細については、小説としてかかれている『天皇(エンペラドール)の密使』(丹羽昌一著 文芸春秋1995)〔F/に〕が、主人公はメキシコ革命のころ在メキシコ日系移民に貢献した日本外務省職員をモデルにしているとある。著者は緒言で“外務省の史料館やそこここの大学図書館を訪れてまわった。その渉猟のすえ、できあがったのが以下の物語である。いくつかの理由から、主人公には仮名を用いたけれども、同人が当時の在メキシコ日本人移民のために尽した努力と貢献は紛れもない事実である”とあり、小説のエピローグには革命後主人公は健康を損ない、外務省を辞職、東京外語大学でスペイン語を教え、第二次大戦後は郷里の松本市に隠棲したと記されている 。
【調査経過】① 「パンチョビアー」という人名を[NDC 256 歴史 メキシコ]の書架で調査するが、みあたらない。
② 調査対象人名の表記が不確かなので、インターネット検索エンジンで「メキシコ革命」と「パンチョ」をキーワードに検索する。パンチョ・ビリャ(ビラ)として検索結果が多数検索された。日立世界ふしぎ発見!「バックナンバー」(http://www.tbs.co.jp/f/hakken/mystery827_2.html)(現在は検索不可 2011年10月25日参照)に過去の放映の記録として、「第827回 封印されたメキシコ革命 日本人移民を救出せよ」がある。メキシコ革命で活躍したパンチョ・ビリャの記述のほか、メキシコ革命の際日本人移民を救出した「馬場称徳」というシカゴ領事館職員の名もあり。
③ 人名や事項からひくことのできる『ラテンアメリカを知る事典』(前掲)を「ビリャ」でひくと答の記述あり。その他、『広辞苑 第6版』(新村出編 岩波書店2008)〔813.1/シイ〕2286pにも「ビリャ」として同様の記述がある。
④ 「馬場ショウトク」は「馬場称徳」であろうと思われ、郷土資料の[N280 伝記]の書架で、人名辞典『長野県人名鑑』(信濃毎日新聞社開発局出版部編・刊1974)〔N280.3/32〕、『松本平人名録』(市民タイムス編・刊1996)〔N283/14b〕、『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 別篇 人名』(東筑摩郡・松本市・塩尻市編・刊1982)〔N233/10/ベツ2〕等を見るが記述がない。
⑤ 当時領事館の職員であったらしいことから、『職員録』(前掲)をメキシコ革命勃発の1910年からみていく。大正2(1913)年から5(1916)年までシカゴ領事館に馬場称徳の名前があることはわかる。
⑥ 「メキシコ革命」と「日本人移民」をキーワードにインターネット検索エンジンで検索すると、「晴走雨読」(http://www.geocities.co.jp/Athlete/Acropolis/3228/index.html) (現在は検索不可 2011年10月25日参照)という個人の読書日記のホームページに、メキシコ革命での日本人移民の救出をテーマにした小説『天皇の密使』(前掲)の書評が記されている。
⑦ ⑥の資料を所蔵していたので内容をみていくと、答の記述がある。また362p主要参考文献に『反乱するメキシコ』(前掲)、『メキシコに生きる日系移民たち』(前掲)、『メキシコ革命物語 英雄パンチョ・ビリャの生涯』(前掲)があげられており、当館の所蔵や内容を確認する。
問13千曲川の水質で坂城の笄(こうがい)橋から立ヶ花橋までの各地点のBOD値が知りたい。最新のものはあるか
答 長野県のホームページ「長野県水大気環境課 水質測定結果【年間概要・速報】」(http://www.pref.nagano.jp/kankyo/mizutaiki/suishitsu/sokuhou.htm)(2011年10月25日参照)に、先々月の分まで載っている。ただしホームページには笄橋のBOD値の記載がなく、『平成18年度版環境白書』〔N519/33/'06〕に記載がある。
【調査経過】① 郷土資料の[N519 衛生工学 都市工学]の書架で『平成22年度版環境白書』〔N519/33/’10〕を見ると41p「生活環境の保全に関する項目の測定地点別水質測定結果」にBOD値がある。笄橋のBOD値は『平成18年度版環境白書』には掲載されているが、平成19年度版以降には記載がない。立ヶ花橋のBOD値は平成22年度版に記載がある。さらに新しいものがないかと逐次刊行物も探すが、印刷物にはなし。
② 長野県のホームページ(http://www.pref.nagano.jp/)水大気環境課のページ(http://www.pref.nagano.jp/kankyo/mizutaiki/suishitsu/sokuhou.htm)(2011年10月25日参照)に速報値が掲載されており、過年度の分も見ることができる。ただし笄橋の記載はない。
問14長野県の郷土食「しょうゆ豆」の作り方や食べられている地方について知りたい
答 『信州の郷土食』(長野県下商工会婦人部ほか編 銀河書房1985)〔N596/35〕217pに木曽地方の作り方として“まず、豆(ダイズ・黒豆など)を一日水に浸した後、やわらかく蒸す。これをもろぶた(長方形をした浅い木箱)に入れて日光に当て、水気がなくなる程度干す。乾き過ぎないようにし、適当に乾いたら、すぐったワラとダイコン葉を少し混ぜて豆にかぶせて保温する。ふとんをかけておくか寒い日はこたつのそばに寄せておく。こうしておくと豆の表面にカビが発生してくる。この現象を「花がかかる」という。こうして花がかかったら取り出して冷所に保存し、必要に応じて出してくる。カメのような入れものに水と豆を入れ、やわらかくなったら塩を入れて味をつける”とある。『同書』(前掲)には、戸倉町(現千曲市)の郷土食としても紹介されている。また『聞き書長野の食事』(「日本の食生活全集長野」編集委員会編農山漁村文化協会1986)〔N596/37〕282~283pには、長野市七ニ会(なにあい)の製法があげられており、『信州の郷土食』(前掲)と同様の製法で煮豆を乾燥・発酵させたものをこうじ豆と呼び、“食べるときには、こうじ豆を食べる分(ニ、三合)だけ、たまりにつけておき、やわらかくなったところで食べる”とある。 食べられている地方については、『信州の郷土食』(前掲)98pに“往古より北国街道沿いに伝え作られてきた”とある。一方『郷愁の味・脱線話』(金子万平著・刊2003)〔N383/38〕21pには“更埴市稲荷山の麹屋に「醤油豆あります」と大きく紙がはりだしてあった。(中略)聞けば、ここより北にしかないのだそうな”とある 。
【調査経過】 『長野県史 民俗編』(長野県編 長野県史刊行会)〔N209/11-3〕で、各地の郷土食についての記述をあたるが「しょうゆ豆」はみあたらない。
② 郷土資料の[N596食物・料理]の書架をみていく。『信州の郷土食』(前掲)に答の記述がある。また『聞き書長野の食事』(前掲)にも同様の詳しい記述があり、煮豆を乾燥・発酵させた状態をこうじ豆ということ、たまりにつける点などが違うということがわかる。
③ 『つけものの味ふるさとの味』 (楜沢正晴ほか編 長野県農業改良協会1976)〔N596/14〕をみていくと、456pに北信濃の味としてこうじ豆の作り方が紹介されている。製法は、②でこうじ豆と呼ばれているものとほぼ同様である。
④ 郷土資料の[N383 衣食住の習俗]の書架をみていく。『郷愁の味・脱線話』(前掲)に答の記述がある 。
問15『福祉保健年報』はあるか。最新の保健所管区別の自殺率が知りたい
答 『長野県衛生年報平成19年版』(長野県衛生部編・刊 2009)〔N498/12/’07〕55~60pの「主な死因の死亡率・死亡率,性・市町村別」表中に自殺率がでている 。
【調査経過】① 『福祉保健年報』という書名の資料は見あたらない。質問者に詳しい資料の情報をたずねると、新潟県で出されている同名の資料に自殺率が出ていたのをみて、長野県内で出されている同様の資料を求めているとのことだった。
② 郷土資料の[N 498 衛生学・公衆衛生]の書架をみる。『長野県衛生年報 平成19年版』(前掲)に自殺の実数と率が、市町村別の表中に保健所ごとの数も併記されている。
③ 最新のデータを求めて、県のホームページをみるが速報は出されていない。長野県行政情報センター資料目録検索(http://www12.pref.nagano.lg.jp/)(2011年10月25日参照)で平成20年度版が検索されたがこの時点で未所蔵だったため、平成19年版を答とする 。
問16「信濃では月と仏とおらがそば」の作者は誰か。『信州蕎麦学のすすめ』(市川健夫著 オフィスエム 2000)〔N383/29〕には「中村某」の作とある
答 「中村某」とは中村六郎をさしていると思われる。小林計一郎「一茶顕彰家中村六郎略伝」 雑誌『長野』第70号(長野郷土史研究会1976)9pに“中村家では「信濃では月と仏とおらがそば」の句は六郎が作ったものだと言い伝えている。同家の本職は酒造(銘玉の井)であったが、氷ソバというソバを製造販売していた。(中略)この氷ソバの宣伝の意味もあってこの句を作ったのだと言う”とある。
 なお『俳人一茶』(宮澤義喜編 東京三松堂1897)〔N913/87〕、『俳諧寺一茶』(一茶同好会編・刊1910)〔N913/272〕ではこの句が一茶の句であるとしているが、小林計一郎「一茶の虚と実」雑誌『長野』(前掲) 104号41~42pで“①一茶は、おびただしい句日記や句文集を書いているが、それらのなかにこの句がみえない。②一茶の三回忌にその門人たちが編集・出版した「一茶発句集」にこの句がない。③右(「一茶発句集」)の句集を増補した「嘉永版一茶発句集」にもこの句がない”という理由をあげている 。
【調査経過】① 『信州蕎麦学のすすめ』(前掲)12pを確認する。“この句は大変有名で、小林一茶の句だと思っている人が多いが、実は明治四〇年代一茶と同じ柏原村(現信濃町)の中村某氏の作だといわれている”とあり、小林一茶の句とする説もあるらしいことがわかる。
② この句についての諸説を扱った論文がないかと、自館システムでこの句の初句をキーワードとして検索すると、小林計一郎『「信濃では月と仏とおらがそば」は一茶の作ではない』雑誌『長野』167号(前掲)90pに、この件については雑誌『長野』(前掲)の70号と104号に詳しいとある。
③ 雑誌『長野』(前掲)の70号をみると答の記述がある。また『同誌』(前掲)104号41~42p小林計一郎「一茶の虚と実」をみていくと、この句の初出としては『俳人一茶』(前掲)〔N913/87〕という資料があり、またこの句を有名にした資料として『俳諧寺一茶』(前掲)〔N913/272〕が揚げられている。
④ 『俳人一茶』(前掲)をみると、18pに“翁江戸に出でて、始めて成美を訪ひし時、成美遇はざりければ、即ち、信濃では月と佛とおらがそば 或いは三句蕎麦ばかりとも云 と書き止めて去らんとす。成美これを見て、奇とし出でて面し、其非凡なるに驚き、喜びて門下に寄食することを許しけり”とあり、一茶の句とされている。また『俳諧寺一茶』(前掲)所収、束松露香の「俳諧寺一茶」11pをみても一茶の句となっている。
⑤ 小林計一郎「一茶の虚と実」『長野』(前掲)104号では、④の資料への反論がなされており、『俳人一茶』(前掲)の材料を提供したのは中村六郎であること、『俳諧寺一茶』(前掲)の編者一茶同好会の会主が中村六郎であり、束松露香と中村六郎には親交があったことや、答にある理由から、この句の作者を中村六郎と推測している。
問17『箱火ばちのおじいさん』(宮口しづえ著 筑摩書房 1974)[91.3/ミ]は、昔新聞で読んだものと少し異なる気がする。どう違うか確認をしたい
答 初出は『信濃毎日新聞 夕刊』に、『箱火バチをまもったおじいさま』というタイトルで1972年10月7日から1972年10月30日まで連載されている。連載時は各章の表題は無く、また、単行書では 「18 小さなおまつり」「19 富山(とやま)のくすり売り」「20 サンマのはらしばり」の3章が加筆されている。
【調査経過】① 指定された『箱火ばちのおじいさん』(前掲)を確認するが、特に初出の記述はない。自館システムで、同作品を所収する資料を探すが、『宮口しづえ童話全集 第6巻 胸にともる灯』(宮口しづえ著 筑摩書房 1979)[N930/126/6]などのあとがきや月報にも初出の記載、それにかかわる記述などは見当たらない。
② 宮口しづえについて調べる。『日本近代文学大事典 第3巻』(日本近代文学館編 講談社 1977)[910.26/ニホ/3]、『日本児童文学大事典 第2巻』(大阪国際児童文学館編 大日本図書 1993)[909.03/オオ/2]191pなどに、略歴(長野県小諸市出身、山口村(現・岐阜県)の児童文学作家)や代表作についての記述があるが、『箱火ばちのおじいさん』の初出は不明。
③ 『新聞小説史年表』(高木健夫編 国書刊行会 1981)[910.26/タタ]、『新聞小説史 昭和編2』(高木健夫編 国書刊行会 1981)[910.26/タタ/2]などをみるが、記述なし。単行書の出版年から、1974年以前の『文芸年鑑』(日本文芸家協会著 新潮社)[905/1]をみるが、地方紙は採録対象になっていない。
④ 自館システムで「宮口しづえ」をキーワードに雑誌記事検索をする。雑誌『日本児童文学』第40巻12号(1994年12月)に「追悼・宮口しづえ」特集を発見。96~97pに略年譜があり、1973年66歳の項に“信濃毎日新聞夕刊に「箱火ばちを守ったおじいさん」を連載。二月、腎臓炎のため入院。四月、いったん退院したが、一週間後再入院”とある。
⑤ 1973年の『信濃毎日新聞 夕刊』を確認していくが、見当たらない。遡って1972年をみていくと、10月7日から30日まで連載されている。内容を照合していく 。
問18善光寺で行われた日清・日露戦争の戦没者慰霊法要に出席するため、乃木大将が来県した日はいつか
答 明治39年5月14日。16日に参拝している。
【調査経過】① 日清戦争と日露戦争の年代を確認する。『日本史年表・地図』(児玉幸多編 吉川弘文館 2011)[210.03/ココ]には、日清戦争は1894(明治27)年8月1日清国に宣戦、1895(明治28)年4月下関条約、一方日露戦争は1904(明治37)年2月ロシアに宣戦、1905(明治38)年9月ポーツマス条約で終戦となっている。法要はそれ以降に行われたことになる。
② 郷土資料[N180 仏教]の書架で『善光寺史 上・下』(坂井衝平著 長野市教育会 1992)[N181/63]をみるが記述なし。巻末の年表にも法要についての記述はない。『善光寺史研究』(小林計一郎著 信濃毎日新聞社 2000)[N181/194]にも、法要の記述は見当たらない。
③ 同じ書架で『善光寺日本忠霊殿史』(田中武夫編 善光寺日本忠霊殿造営奉賛会 1970)[N181/72]を発見。5~8pには、“ご開帳には、伊東祐享元帥(日露戦争時の軍令部長)、東郷平八郎大将(同連合艦隊司令長官)、上村彦之丞中将(同第二艦隊司令長官)を初め陸海の有力な将軍たちを招いて盛大な『日露戦役忠死者追悼法要』をおこなうべきだとの世論が次第に高まり(後略)”とあり、9pからは、5月15日に伊東元帥、東郷大将、上村中将が参拝、翌16日には、閑院宮載仁親王、乃木希典大将らが参拝したとある。また、乃木大将が来県した様子については“(前略)乃木大将の入信は飄然と、正に風の如くであった。信濃毎日新聞の諏訪支局が「乃木大将の微行、本十四日午後二時半、当下諏訪駅にて二等車の中に発見、急ぎ、県庁その他に打電せり」と報道したほどである。”と書かれている。
④ 日付が判明したので、明治39年5月中旬の『信濃毎日新聞』をマイクロフィルムでみる。明治39年5月15日(火曜日)の信濃毎日新聞の第3面に乃木大将が来県した際の様子が書かれている。これによると、14日午前5時に東京信濃町を発車した列車に乗り、午後2時半ごろ上諏訪を通過、下諏訪で下車。14日夜は塩尻で宿泊したようだ 。
問19昭和30~40年代にかけて書かれた猿飛佐助についての絵本をみたい
答 いずれも自館では所蔵しないが、『猿飛佐助』(大野きよし絵 集英社 1960 集英社のゴールデンブック8)、『さるとびさすけ』(尾崎士郎文 玉井徳太郎絵 小学館 1961 小学館のこども絵本)、『さるとびさすけ』(柴田錬三郎原作 渡辺福男絵 辻村ジュサブロー人形美術 小学館 [1976] 真田十勇士1)、『さるとびさすけ-忍術修行の巻-』(ひかりのくに 197- NHK真田十勇士のえほん1) を紹介した。
【調査経過】① 自館システムで「サルトビ」「サスケ」「ジュウユウシ(真田十勇士)」「イガ」「ニンジャ」などをキーワードに書名検索するが、絵本は見当たらない。
② 「総合目録ネットワークシステム(http://unicanet.ndl.go.jp/psrch/redirect.jsp?type=psrch )(2011年10月25日参照) 」で「サルトビサスケ」で検索する。168件ヒットするが、ほとんどが小説類のため、NDC分類順に表示させ、絵本に該当しそうなものを絞り込み、答えの4冊を選ぶ。
③ 「総合目録ネットワークシステム」の検索は、前方一致か完全一致しか選択できないため、『○○サルトビサスケ』といったものは検索できない。そのため、「○○」に当てはまる言葉として、「ニンジャ」「エホン」を想定して検索してみる。「ニンジャ」では、絵本に該当するものはない。「エホン」では、『絵本猿飛佐助』(林芙美子著 新潮社 1951)および、『同書』の朋文社版、講談社版がヒットするが、小説に分類されている。また、ページ数も多く一般的な絵本とは思われない 。
問20福島正則が元和(げんな)元年信州川中島へ改易配流された際、居住した屋敷の場所、形態を知りたい
答 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社 1979)[N290.3/54]881pに「福島正則屋敷跡」の項目があり、現在の上高井郡高山村高井堀の内とわかる。形態については、『長野県指定文化財調査報告 第5集』(長野県教育委員会編・刊 1974)[N709/24/5] 20pの「福島正則屋敷跡」に、“この史跡は福島正則がその晩年の元和五年から寛永元年まで約五年間、きびしい幕府の監視のもとに配流に近い生活をした屋敷で、(中略)その規模は県道須坂山田線に添い、東西一〇四、五メートル(五七、五間)、南北七二、七メートル(四〇間)、面積七六アール(七反六畝)。もと四方に高い土塁を築き、その上に松・竹・桜等を植え、塁の外には空堀をめぐらしてあった”とある。また、福島正則が高井郡へ改易されたのは元和五年。
【調査経過】① 『長野県百科事典 補訂版』(信濃毎日新聞社開発局出版部編 信濃毎日新聞社 1981)[N030/2A]、『長野県歴史人物大事典』(神津良子編 郷土出版社 1989)[N283/13]などで福島正則を調べる。『長野県百科事典 補訂版』(前掲)693pに“(前略)1619(元和5)年武家法度にそむいたかどで所領は没収。津軽4万5000石に転封を命ぜられ、ついで改めて越後魚沼郡に2万5000石、高井郡に2万石を給せられた。配流に近い生活を高井野の居館に送り(後略)”とあり、問い合わせでは元和元年に信州・川中島とあるが、実際は元和五年に高井野とわかる。
② 高井野について調べる。歴史地名に詳しい『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(前掲)881pに「福島正則屋敷跡」の項目があり、現在の上高井郡高山村高井堀の内とわかる。居館についての記述もあり、屋敷跡が県指定史跡になっていることがわかる。
③ 『長野県上高井郡誌』(上高井郡教育会編 千秋社 1999上高井郡教育会刊・1914(大正3)年の復刻) [N214/89]731p「高井村 福嶋城址」の項目に、“大字高井字堀之内にあり。元和年中、福嶋正則の築く處なり。始め回字形を為して、四壁に高塁を築き塁上に松柏桜等を植ゑ、塁外に空濠を鑿ち、門外に馬場を構へたり。東西七十間南北四十間あり(後略)”とある。
④ 県指定史跡になっていることから、調査報告をみる。『長野県指定文化財調査報告 第5集』(前掲)20pの「福島正則屋敷跡」に屋敷の形態についての記述がある。文化財なので、『信濃宝鑑 中巻』(渡辺市太郎編 歴史図書社 1974)[N290.2/33A/2]もみる。106pに記述あり。屋敷の概要は他の資料と変わらないが、福島正則が元和元年に築いたとなっている。
⑤ 『国史大辞典 第12巻』(国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1991)[210.03/コク/12]で改易の年を確認する。元和五年 。
問21七夕まんじゅうのいわれをしりたい
答 七夕まんじゅうのいわれについては、依頼者調査済み資料の『安曇郡郷土調査叢書 第1編』 (信濃教育会南安曇部会編 郷土研究社 1935)[N232/7/1]232pの “或娘が母から貰つた饅頭を落してまたいたところが一羽の白い鳥となつて空に舞ひ上つて星になつた。それで七夕様には饅頭をこしらへて供へるのだ”という記述以外は不明。
【調査経過】① 七夕まんじゅうとは何かを確認するため、『日本民俗大辞典』(福田アジオほか編 吉川弘文館 2003)[380.33/フア]、『改訂綜合日本民俗語彙』(民俗学研究所編 平凡社 1977)[380.33/ミン]をみるが、記載がない。
② 依頼者の調査済資料を確認する。『安曇野郡郷土調査叢書 第1編』(前掲)に記述を発見。
③ 全県での分布状況をみるために、『長野県史 民俗編 仕事と行事』(長野県編 長野県史刊行会)[N209/11-3]の東信、南信、中信、北信地方の各冊を調査する。「タナバタマンジュー」の記述が多かったのは東信地方で、ついで中信地方。北信地方、南信地方での記述は見当たらない。
④ 郷土資料[N380 民俗]の書架で資料をみる。『しなの食物誌』(田中磐著 信濃毎日新聞社 1980)[N383/5]113~119pをはじめとして、饅頭を七つ食べ、川などで七回水を浴びたなどの記述が多かったが、いわれの記述はない。
⑤ 『長野県史』(前掲)に事例があった市町村の史誌を見ていく。『佐久市志 民俗編 上』(佐久市志編纂委員会編 佐久市 1990)[N223/69/2-1]649pには、“男子は炭酸饅頭を七つ持って、千曲川・湯川、近くの小川や溜池に行き、七回水を浴びて七つ饅頭を食べる習俗が、市域一円にあった。水を浴びると風邪を引かないという。その意味に付いては語られず(後略)”とある。『上田市誌 民俗編(3) 信仰と芸能』(上田市誌編さん委員会編 上田市 2002)[N221/175/25]35pでは、子どもが他家の供え物の饅頭を取って食べる風習を紹介している。また『東部町誌 民俗編』(東部町誌編纂委員会編 東部町誌刊行会 1989)[N221/110/5]271pでは七夕饅頭は比較的新しい供え物としている。『三郷村誌Ⅱ 第5巻 民俗編』(三郷村誌編纂委員会編 三郷村誌刊行会 2004)[N232/23/2-5]267pには、六日の日程として“午後は、まんじゅうや焼もちを作り(中略)七夕様に供える。供え物は、まんじゅうを重箱に山盛りにし、そのほかのものは足の高いお膳(高足膳)に盛るところもある。まんじゅうは、一般に七夕まんじゅうと言い、小麦粉を練り、あんに小豆の練りあんや、なすなどを味噌で和えたものを詰めて丸め、蒸して作る”とある。東信地方では饅頭を七つ持ち、川で泳いでは食べを七回する風習が多い。中信地方は大町市のほか特に南安曇郡の町村に多く風習が残っており、6日の午後まんじゅうをつくり空の見えるところに供えるところが多い。いわれについて言及する資料は無かった。
⑥ まんじゅうということから郷土資料[N596 食品.料理]の書架で資料を見る。『聞き書 長野の食事』(「日本の食生活全集 長野」編集委員会編 農山漁村文化協会 1986 日本の食生活全集20)[N596/37]の「佐久平の食」の章189pにこの風習の説明があり、199pに作り方がある。また、「安曇平の食」の章29pにも記述があるが、いわれは不明。『作って楽しむ信州の粉食』(横山タカ子著 信濃毎日新聞社 2004)[N596/116]12pに作り方がある 。
問22佐久市の平均寿命を知りたい
答 厚生労働省のホームページ上にある平成17年の「市区町村別生命表 (http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/ckts05/hyo01-06.html )(2011年10月25日参照)」によると、佐久市の平均寿命は男79.9歳、女86.1歳 。
【調査経過】① 長野県の統計からみていく。『長野県統計書 第113回(平成20年)』(長野県企画局情報政策課編・刊 2011)[ N350/4/'08]には、市町村別の平均寿命の記載がない。『統計でみる長野県のすがた 2004』(長野県企画局情報政策課編・刊 2004)[N350/31/'04]にもなし。『佐久市統計書 平成18年版』(佐久市総務部企画調整課統計係編 佐久市 2007) [N352.3/15/'06]にも見当たらない。
② インターネットで「平均寿命」を検索していく過程で、「平均余命」という言葉をみつける。『新社会学辞典』(森岡清美ほか編 有斐閣 1993)[361.03/モキ]1312pに“生命表(life table)によって得られる関数の一つである年齢別平均余命のうち、年齢0歳の、つまり出生時の平均余命を特に平均寿命とよぶ”とある。
③ 自館システムで「生命表」をキーワードに検索する。所蔵する『簡易生命表 平成21年』(厚生労働省大臣官房統計情報部編 厚生統計協会 2010)[ 358.1/コウ/'09]には、市町村別のデータの記載はないが、まえがきから、毎年の「簡易生命表」と国勢調査に基づく5年ごとの「完全生命表」の2種類があることがわかる。そこで『国勢調査報告 平成17年』(総務省統計局編・刊)[358.1/ソウ]をみていくが、生命表の記載はない。
④ 生命表を作成している厚生労働省のホームページを探すと「平成17年市区町村別生命表の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/ckts05/hyo01-06.html (2011年10月25日参照)がある 。